「素敵な新年のために」


 歓迎 マルクト教団御一行様

 ――と、その旅館の前には立て看板があった。
 何百年も続く古式ゆかしい老舗だが敷居はさりとて高くはなく、団体客にも新婚夫婦にも人気の特選旅館であった。山の幸をふんだんに使った料理も、源泉かけ流しの贅沢な温泉も、礼儀正しくもきさくな女将や仲居も何もかもが人々の関心を集め、テレビでも何度も特番が組まれたことのあるこの旅館に、今回マルクト教団が団体客として訪れているのは、年末の忘年会を兼ねた慰安旅行のためであった。
 今、コリエルの男性たちが露天風呂でのんびりとくつろいでいる。

「はー」
「生き返るー」
「じゃあ今まで死体だったんだー」
「あげあしとりー」

 ほんのりと頬を上気させ、頭上に畳んだタオルを乗せ、ぼんやり……とした口調で口論にもならないような下らないことを呟きあっている。
 正直、マルクト教団が忘年会を開いてくれるなどとは全く思いも寄らなかったのだ。何せトップがあの上級天使様である。たとえ忘年会があったとしてもその上級天使様に敵対している派閥のコリエルに声がかかるとは夢にも思わなかった。話を聞いた時、皆で顔を見合わせて「嘘だぁー」などと教団最高権力者を嘘吐き呼ばわりしただけでなく、その話が本当のことと知るやまたしても皆で顔を見合わせて「上級天使様もたまにはやるねぇー」と上から目線でしょうもない感想を述べてしまったくらいに、この忘年会兼慰安旅行はコリエルたちにとって意外な展開であった。
 お湯につかって蕩けそうな表情で天を仰ぐコリエル。一方、鼻歌を歌いながらたっぷり泡立てた石鹸で髪を洗うコリエル。更に広い湯船で泳ぐコリエル。女湯を覗こうとこそこそするコリエル――彼は今、別のコリエルによって取り押さえられた――。皆、結構楽しんでいる。

「露天風呂なんて僕初めてですよ」
「皆でお風呂ってのは俺は初めてだね」
「こうやってくつろいでる時に上級天使様入ってきたらどうしよう」
「うわーちぢこまるー」
「いろんなトコちぢこまるー」
「上級天使様のお部屋、露天風呂ついてるらしいよ」
「えっ、部屋に!?」
「ずるい!」
「でも鉢合わせしないで済んだね」
「上級天使様と裸の付き合いは無理だよね」
「……上級天使様のカラダってどうなってんのかなー」
「えー想像していいの?」
「ホクロもなさそうだよね」
「きっと肌弱いんだよね」
「すぐアザとかできちゃうんだ」
「エロ禁止!」
「どこら辺がエロなの?」
「何想像してるの?」
「そういう趣味なの?」
「やめてー」
「上級天使様の裸想像してエロい気分になっちゃったっていう解釈でいい?」
「駄目ェー」

 どうでもいいことを語り合いながらくつろいでいると、女湯からきゃあきゃあと女性たちの笑い声が聞こえ始めた。女性コリエルたちが入浴に訪れたのだ。思わず男湯の中が静まる。別の意味で頬を上気させてついつい女湯との境界を見詰めて耳をそばだててしまう。
 女湯からは女性たちの嬌声が聞こえてくる。お互いの体の肉付きを褒め称える言葉が笑い声の間に聞こえてきて、男性たちの中には居た堪れなくなって早々に引き上げていく者もいた。
 残った男たちは湯船の中で女湯の方ににじり寄っていく。
 一体どういう会話をするのか、色々期待しながら無駄に真剣な顔つきで女湯の会話に集中していると――

「天導さん、スタイルいー!」

 ……などと聞き捨てならぬ台詞が聞こえてきた。
 更に

「そ、そんなことありませんよ!」

 という天導天使の返答まで。

「天導さん女湯なんだ!」
「いや、男湯に来られても困るんだけど!」
「てっきり上級天使様の露天風呂でご一緒するのかと!」
「きゃーエローい」
「エロ禁止だってば!」

 男たちが先刻までより声の音量を下げてこそこそと盛り上がる。何だかんだ言っているが、皆、上級天使様と天導天使様の関係については一致しているのである。本人たちはまるっきりそんなこと望んでいないようなので皆の脳内妄想の域を出ることはないがだからこそ言いたい放題である。

「私なんて、ただ痩せてるばっかりで胸も大きくないし…皆さんの方が女性らしい身体つきで素敵ですよ」
「痩せてる方がいいじゃないですか」
「でも胸は大きくないと色々できないしね」
「い、色々って何するんですか?」
「しかも、誰に?」
「ぐふふふふふふふいつもはクールなあの人をこの肉体で誘惑して生唾ゴックンものよぐへへへへへ」
「あ、アブナイ妄想が……」
「ぐへへって……」
「じ、上級天使様は惑わされませんからね!」
「…天導さん可愛いー!」
「天導さん今夜のご予定はいかがです?」
「ハイ?」
「天導さんって脚キレーイ」
「きゃー! 触っちゃ駄目ですー!」
「やわらかーい」
「きゃーきゃー! そんなトコ、だ、駄目ですよー!」
「こっちはどうですかー? 気持ちいいですかー?」
「くすぐったいですぅぅ〜っ!!」

 女湯が騒がしくなってきた。じゃぶじゃぶという水音と、悩ましげな喘ぎ声にも似た悲鳴が湯煙に木霊する。
 アレコレ想像した男湯の面々が次々にのぼせて倒れていく。
 正気を保っている数少ない鋼鉄の理性を誇る男たちが仕方なく彼らを救出し引き上げて……
 男湯はからっぽ。
 女湯はまだまだかしましく。


     *


 湯上り卵肌の天導天使が上級天使の部屋を訪れて三つ指ついて深々と頭を下げた。後頭部で結い上げた髪は艶やかで、ほのかな花のような香りが漂っている。
 浴衣姿の美女というのは湯上りだろうが夏祭りだろうが男の心情にぐっと訴えかけるものがあるものだが――
 上級天使は一瞥しただけで眉ひとつ動かすことなく「余計なことを」と吐き捨てた。
 勿論、天導天使だって別に露天風呂での一件に対抗心を燃やして上級天使を誘惑しにきたわけではない。

「上級天使様もどうかおくつろぎ下さいませ」

 顔を上げて柔らかく笑う。上級天使はその桜のような笑みをまるっきり見ていなかった。
 温泉旅館に来て尚、マルクトの制服と大きな偽翼を身につけたままの上級天使。天導天使は彼を和ませにやって来たのだった。

「このような馬鹿騒ぎは好かぬ」

 そっぽを向いてむっつりとした表情で窓の外を仁王立ちで眺めている上級天使。何とも美しい山の雪景色が広がっているが――とてもとても、それを楽しんでいる顔ではない。床の間に飾られた格式高い永劫の未来を謳った掛け軸も真白い凛とした生け花も上級天使にとっては心底どうでもいい存在であるらしかった。
 和室の畳に直に座ることが気に入らないのか、それとも胡坐をかく自分の姿を想像したくないのか、彼は旅館に着いてからというものずっとこうして仁王立ちで窓の外を眺め続けている。そのくせ足下は裸足なので格好がつかない。縞々模様の浴衣に袖を通すことも頑なに拒み続けて、不機嫌は募る一方。
 そんな折にぬくぬくと温泉を満喫した天導天使がやってきたのだから――
 不満があっという間に堰を切って溢れ出す。

「どうせお前の差し金なのだろう。忘年会などとくだらぬことを……マルクト教団に忘年など必要ない。過去は存分に悔い反省し未来に繋げていくものだ。大体どうして私とコリエルたちが仲良くせねばならないのだ、最初に背を向けたのはコリエルたちではないか、それを忘れて宴会などと……虫が良すぎる! 大体お前、上司の私に何の断りもなくこんなことをしてタダで済むと……」
「主催者は上級天使様ということにしてありますからご心配なく」
「そういうことを言っているのではないッ! 貴様、喧嘩を売っているのか!?」
「どう聞いても喧嘩を売っているのは上級天使様ですよ。落ち着いてください」
「おのれ」

 達観したように飄々とした態度の天導天使に上級天使は遂に動いた。
 制服の裾を翻して天導天使に飛び掛り、その首を締め上げたのである。結構本気でこのまま絞め殺してやろうかとすらちらりと思う。
 だが、鬼の形相の上級天使に首をくくられても、天導天使の桜の微笑みは全く揺るがなかった。
 自分の首をぎりぎりと締め付ける上級天使の手の甲に自ら手を重ね、一層柔らかな微笑みを向けたのだ。
 至近距離での微笑みに、思わず毒気を抜かれた上級天使、その手から僅かに力が抜ける。何だか馬鹿馬鹿しくもなってきた。

「天使も今日はお休みです」
「……」

 まったく……と、上級天使は溜め息を吐いて、天導天使を解放した。
 こうやって、いつだって自分を見透かすのだ。
 少しばかり疲れていたことも。
 本当は皆で同じ未来を目指してやっていければいいと思っていることも。
 意外と自分だって賑やかなのは嫌いじゃないことも。
 実は偽翼がちょっと重いと思っていたことも。
 いつの間にか全部天導天使には知られているのだ。
 上級天使が天導天使をストレスの捌け口として使っていることだって、不服でないはずないのに、それなのにさっきみたいに笑う。殺されてしまうかもしれない驚異に晒されても、それでも尚、彼女は上級天使に対して全てを許すような寛大さを見せる。
 まるで、姉のように。

「……」

 乱れた浴衣の襟元を直している天導天使を、上級天使は睨みつける。
 その視線に気付いて天導天使は顔を上げる。
 和室の畳の上に乱れた浴衣で座り込む湯上り卵肌美女。憧れの上司に真摯に見詰められて(妄想)思わずどぎまぎ。
 このまま一線を越えてしまいそうな雰囲気に、頬を染めて彼を見詰め返していたら、お前の言うことはわかったからさっさと出て行けと蹴っ飛ばされた。


     *


 のぼせて強制的に温泉から出されたコリエル一同はゲームコーナーではしゃいでいた。
 ハイパーホッケーに興じる者たち、昔懐かしの格闘ゲーム(格安)で激しく攻防する者たち、そして卓球台を占拠してコーヒー牛乳を賭けた熱いバトルを繰り広げる者たち。
 見事なスマッシュを横っ飛びで追いかけたコリエルのラケットは空を切り、スリッパを高々と放り投げながらすってんころりんと床に転がった。ピンポン玉は軽やかな音を立てて床を跳ねていく。スマッシュが決まって大喜びのコリエルは、決勝点をスコアに追加し、コーヒー牛乳を手に入れた。
 転がった方は悔しがりつつも大笑いで、むくりと起き上がる。

「ねー、ダブルスやろうよ」
「人数足んないよ」
「誰かーダブルス組んでー」
「私も混ぜていただけますか?」

 床に跳ねていたピンポン玉を拾って、挙手をしながら現れたのは、浴衣姿の天導天使である。一緒になって女性コリエルたちも顔を見せる。風呂上りに汗まみれになってはしゃいでいる男性陣を少々冷ややかな目で見ながらも、天導天使の参戦に黄色い歓声を上げた。

「え、天導さん、卓球できるの?」
「あら、結構強いんですよ!」

 浴衣の袖をまくって力こぶを作ってみせる天導天使だが、その仕草が思った以上に洒落にならなくて、コリエルたちは苦笑い。
 だがこれで三人集まった。あと一人誰かいればダブルスが組める――そう思っていると、とんでもない声が聞こえてきた。

「私が相手をしよう」

 ゲームコーナーの時が止まる。
 全員が固まって息を呑んで、ゲームコーナー入口に現れた人物を凝視する。

 縞々模様の浴衣。
 足下は裸足に下駄。
 風呂上りなのか肩に手ぬぐいを掛け、髪はしっとりと濡れている。
 そして、偽翼を背負っていない。

「……上級天使様……」

 唖然とした誰かの声が聞こえ、それからやっと皆が我に返った。
 確かに、それは普段では有り得ない格好をしているが、紛れもないマルクト教団最高幹部、上級天使様その人であった。
 コリエルたちがわぁっと集まって談義が始まる。

「上級天使様が偽翼背負ってない!」
「白い服じゃない!」
「何あの手ぬぐい!」
「下駄ってどこから見つけてきたの!?」
「てゆーか驚くほど似合うと思うのは僕だけ?」
「浴衣で仁王立ちしてるし」
「あの浴衣めくってみたい」
「モモヒキはいてたらどうしたらいい?」
「脱がす」
「下着はどんなんだろう」
「総レースでしょ」
「フンドシだってば」
「シルクだよ!」
「浴衣の時は下着つけないんだよ」
「衝撃的!」
「じゃあ今ノー……」

「勝手なことを言うな!!」

 腹の底からの怒声にコリエル一同ぴゃっと飛び上がる。
 スミッコに固まって怯えた仔猫みたいに縮こまって涙目で上級天使を見上げる。こめかみに青筋を浮かせた上級天使が卓球ラケットをびしっと突きつけてきた。

「勝負をするのか、しないのか!」
「勝つ!」

 するかしないかを飛ばして決意を述べるコリエルが一人。すっくと立ち上がって卓球台へ歩み寄る。
 もう一人、これ以上ないくらい真剣な表情で立ち上がったコリエルが続く。
 ふたりとも、ドーパミンが噴出していて、自分が何をしようとしているのかよくわかっていないようだった。
 残されたコリエルたちも顔を見合わせたが――テンションが伝染したのか、あっという間に応援団が結成された。

 上級天使の隣に天導天使が立つ。にこにこと笑って偽翼を背負っていない上級天使に声を掛けると、上級天使は別に面白くもなさそうなつっけんどんな顔で「天使は休業なのだろう」と呟いた。
 天導天使は目を丸くして、それからやんわりと笑って、そうですねと答える。

「じゃあ『上級天使様』じゃなくて――『上級様』とお呼びした方がいいかしら?」

 小首を傾げた天導天使。
 ラケットでピンポン玉を跳ねていたコリエルがぽつりと

「……上様?」

 ろくでもない発言。
 上級天使の青筋が増える。
 しかし天導天使以下、女性コリエルたちも男性コリエルたちも、揃いも揃って『上様』に同意してしまう。

「高貴っぽい! 上様!」
「偉そう! 上様!」
「言い易い! 上様!」
「上様!」
「上様!」
「うえさま!」
「ウエサマ!」
「U・E・SA・MA!」
「黙れ」

 笑いの混じった上様コールに今度は先刻とは真逆の地を這う氷点下の声。皆の背にぞくりとしたものが走るものの、天導天使だけは全く動じない。

「いきますよ、上様! 勝ちましょう!」
「……コリエルを潰したら次はお前だ」
「まあ非道ですね、上様」
「死ね。今すぐ。遠慮はいらん」

 変な場所にも火花を散らしつつ、かくして『上様チームvs.コリエルチーム』の卓球対決が始まった。
 皆、豪勢な夕食も忘れ、試合は白熱して中々勝負は決まらない。
 凄いフットワークの上級天使に、異様にリーチの長い天導天使。
 対するコリエルたちはギリギリのラインを狙ったり曲がるサーブを打ったりしてトリッキーに攻めていく。
 やんややんやの卓球大会。
 忘年会という初心はどこへやら。
 いつの間にか、年も明けて新年を迎えたことすら誰も気付かず――

「往生際が悪いぞ、コリエル!」
「上様こそしつっこいですよ!」

 どうやら親睦は深まったようである。


「素敵な新年のために」 終了


りゅう様に頂きました。今更ですが今年もよろしくお願いします。有難うございました。


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